アレルギー 免疫

オルゴール療法レポート 2016.7.18.富士原ミナ子(仮名)

私は小さいときは虚弱体質だったようでした。生後2か月で湿疹ができ、頭が一面湿疹のかさぶたで覆われてしまい母がお医者さんに「これでは、この子は一生毛が生えてきませんよ」と言われて、ノイローゼになりそうだった、という話を大きくなってから聞かされました。母が私を身ごもっていたころ、母は大変な時期で、父の実家をでて、生後2か月のころは、新しいアパートで生活をし始めて少したったころでしたから、私は母のおなかにいる時も、生まれてからもなんとなく両親が不安定な時だったのだと思います。母乳であまり育てず、ミルクでと言われたようで、それも体に関係しているかもしれませんが、小さいころはとても体の弱い子供でした。
 
湿疹が治まると喘息が出始めて、季節の変わり目にはいつも喘息の発作がおきていました。母はあまり薬を飲ませませんでした。長く薬を飲むのは良くないと考えていて、それは今の私の健康への考え方にも影響しています。生後2か月くらいから、6歳までは、新宿の社宅に住んでいて、そのころは光化学スモッグもひどかったようで、母は私のことや父の海外出張のことも考えて、千葉に家をと考えたようで、小学校入学時には、千葉県の一軒家に移り住みました。
 
その家でシックハウスになっていたのかも、と今では考えられるのですが、今でも建材のにおいが少し残っている家で私と弟と母は花粉症になりました。アレルギーの検査を受けて、杉やヒノキのアレルギーもありました。鼻水が春先には止まらない、夏のプールの後は、必ず水着を着ていた場所に湿疹ができて掻き崩してしまう、喘息がある子供でした。よく休むので、母が心配して、養護学校へ入れたほうがいいんだろうか、と叔母と電話で話していたのを覚えています。
 
生理が小学校高学年で始まり、高学年のころは、授業中にしょっちゅううとうとしていたのを覚えています。たぶん、本が小さいころから好きで寝る前に分厚い本を読んでいたことと、就寝前に家ではいつも玄米茶を飲んでいて、そのカフェインが私には強すぎたのもあったと思います。今は夜にカフェインをとるのをやめました。それで寝つきが大幅に改善しています。また、父が電気のものが好きで、電気あんかを家じゅうで使っていて、今、思うと、それも寝つきが悪い、とか、電磁波の原因になっているかもと思います。電気あんかでは結局ちっとも足が暖まらず、いつも冷たい足で、布団の足の部分がぐっしょり濡れている感じでした。母に足を温めてもらっていました。小学校低学年のころはあまり食欲がなく、高学年になってからはスナック菓子を夕方に食べるようになって、太りましたが、朝はいつも食欲がなくて、仕方なく食べていたり、給食もおなかが冷えているのに食べるので、食べた後の胃の調子がいつも悪いという状態でした。
 
中学生になってからは、体を動かすことが増えたからか、喘息がほとんどでなくなりました。バスケットボールを一日1時間、夏休みは一日3時間やっていて、夏はそれで、胃腸をこわすほどでした。暑い体育館でずっと走るので、きつくて、先輩が吐くことを教えてくれ、(今思うとそんなことをするなんて異常と思いますが、吐くと走るのが楽なのです。おなかの中のものがなくなるからでしょう)吐き癖がついてしまい、また、練習が終わると大量に水分を摂取するので、一日に2キログラムも体重が増減する夏休みでした。それで、中学一年生の時に胃腸炎になり、胃のレントゲンを撮るときに、胃の動きを止める注射を打つのですが、注射を打ったら倒れてしまい、その薬で何かショックが起こったことがわかりました。それが薬は怖いと思ったきっかけです。
 
高校生になってからも、夜、寝つきが悪く、朝、目覚めが悪い状態で起きて、朝ご飯を食べるので、いつも胃の状態が悪くて、胃薬をよく飲んでいました。それもあんまりよくなかったなあと今になっては思います。高校生の時には、あまり運動はしませんでした。高校3年生の受験の時の夏に家で勉強していて、集中できなかったのは覚えていて、小学生から中学生の時には、あんなに勉強に集中していたのになあと思いました。でも結局、大学に受かり、八王子で独り暮らしをすることになります。
 
大学生になり、独り暮らしをし始めて、また、大学が夜学だったので、夜の授業のあと、先輩たちと飲むことが増えて、生活がさらに夜型になってしまい、今思うと、生活は夜型、食事は自分の食べたい洋食ばかりで、栄養がとれていませんでした。それで、異常な低血圧に気が付いたのが、大学2年の健康診断です。上が60、下が40という血圧の値で、看護師さんが3回測り直したけれど、変わりませんでした。その時は、なるほど、と思いました。駅の階段が、若いのに、すごくつらいのです。びっくりするほど、頭や体が重くて、これって血圧が低いからなのかあ、と思いました。それで、母がますます心配して、おかずを作ってくれたり、自分でも栄養のあるものをとるように心がけるようになりました。そして、みんなは、徹夜をしても平気なのですが、私は、夜12時を過ぎるとつらくてたまらず、あまり夜遅く出歩くのはやめました。それと、人とずっと一緒にいるのが苦手でした。人に合わせるのも苦手だけれど、人と一緒に泊まりに行ったりすると、すごく疲れるということのほうが先に立ってしまうのです。不機嫌になるのです。今では、体調や周囲の環境が変わり、特に化学物質が多いと疲れることがわかっているので、自分でどうにかするのですが、当時はわからず、人と泊まりに行くとか、長く一緒にいるのが苦痛でたまりませんでした。
 
大学の先輩に紹介されて、小学校の障害児学級でアルバイトをしていました。子供と一緒にいて、遊び相手になったり、活動を手伝うアルバイトで、今の職業にもつながっていくきっかけとなりますが、そのバイトが、本当に疲れて、終わると、サークルの部屋のパイプ椅子を3台並べて、その上で寝ていました。なんで、こんなに疲れるんだろうと思いました。結局、体力がないのと低血圧なのだと思いましたが、他の人は疲れないのかなあと思いました。
 
大学を5年間で卒業し、その後も他の学校で一年間アルバイトをして、26歳の時に寄宿舎指導員という立場で、房総半島のほうで学校の中に住み込みで働き始めました。その職業は、いわゆる寮母という立場で、養護学校に来ている子供たち(喘息や肥満・虚弱体質)の夜の生活を預かるという仕事でした。不規則な勤務と、夜中の見回りや、神経を張りつめらせたまま寝たり・起きたりを繰り返すこと、時には、はしかにかかった子供たちを何人も一晩に看ることもありました。夜中に仕事をするのは、徹夜も苦手な私なので冷や汗びっしょりです。朝が来ると、体がとてもだるく感じました。田舎なので、ある日、蜂にちくっと刺されたような感じがして、あれは蜂だったのかと今でもよくわからなくなるのですが、それで、病院に行って、結局アレルギーの薬を飲むことになりました。それがジルテックという薬で、それを飲むことで、より、だるさが助長されるような気がしました。そして、何より、宿舎や学校全体を年に1~2回消毒するのですが、その後に必ず、不正出血して、体調を崩していたようです。
 
働いて2年目に、すごいストレスがあり、やはり、教員になろうと思って、猛勉強しました。寄宿舎指導員は3年間して、今度は東京の小学校で勤務することになりました。
 
江戸川区の小学校で、働き始め、仕事量に驚き、学級も大変になり、自分でも毎日やっていることに追いつかないと思いました。でも、助けてくれたり、心配してくれる先輩や仲間のおかげでなんとかやっていましたが、夜は千葉の実家に帰るのが、9時10時当たり前の生活でした。土日は仕事か寝ているかで、遊ぶ暇は全くなかったし、遊ぶ気力もありませんでした。指導員時代から、休日はほとんど昼まで寝ていました。起きれませんでした。母が心配して無理に起こしても、また寝てしまい、ほとんど寝ている始末で、夜に寝れないで月曜日に無理やり朝起きるので、とても毎朝起きて出勤するのが辛かったです。
 
小学校の近くに一人暮らしをしたのは、小学校に勤務して2年目の5月くらいです。カーテンもつけずに寝ていました。また、学校が終わっても、保護者と携帯電話で、夜に1時間くらいやり取りをして、ご飯が用意できないから、コンビニのお弁当を買ってきて食べていました。相変わらず、毎日だるくて、私は若いのに、子供と外で遊ぶのが嫌いでした。だるくてしんどいのです。どうして、休み時間も休めないのかなあと思いました。でも、その当時の学校は、まだ、子供の休み時間に休息という時間を設けていて、先生方も職員室でお茶を飲んだり、先生方がいろいろ作ってきたものをみんなでつまむという習慣のある、温かい雰囲気がありました。だから、私が、子供と遊ばずに職員室で何か食べていても、「おいしそうに食べてくれて嬉しい。」と喜んでくれ、いろいろ食べさせてもらっていました。でも、どうして、他の若い人たちは、あんなに活発に動けるのか、あんなに快活なのかと思っていました。今思うと、私は、体力のせいで、自分を責めていたし、卑屈になっていたと思います。
 
一人暮らしが夏に入ったころ、調子が悪くて、時間もできたので、お医者さんに診てもらうことにしました。アレルギーと言われて、アレグラを処方され、飲んでいました。ところが、夏が終わり、たまたま時間がなくて、薬だけ処方してください、といった先のお医者さんが、「あなたの症状は、アレルギーじゃないよ」と言ったのです。私がコンビニに入ると、具合が悪いとか、アパートでシャワーを浴びると、体が赤くなるという症状がでていて、同愛記念病院で検査を受けたほうがいいと言ってくれました。私をずっと指導してくれた小学校の年配の先生も、「あなた、いつもコンビニの弁当食べた翌日におなかの調子が悪いと言っているよ」と教えてくれました。それで、化学物質アレルギーなんだということがわかり、北里大学病院に通うことになりました。
 
結局、「環境不耐症」という病名が付きました。化学物質過敏症と電磁波過敏症の軽度のようでした。それで、アパートを引き払い、実家に戻り、運動を毎日して、汗をかき、デトックスをし、食べ物に気を付ける、ということになりました。父と母が初めはよくわからず、喧嘩もしましたが、本当によく協力してくれて、引っ越しや体質改善の運動、食事を助けてくれました。そのことに、とても感謝しています。それを何年も続け、また、学校を移ったところで、教員のやはり先輩の先生が、東洋医学の治療院を教えてくれて、通うことになりました。そこで、食事や気の持ち方、生活の仕方など、たくさんの生活の知恵を教わり、かなり改善しました。結婚についても、ちゃんと自分が心構えをしなさいと言われました。
 
3校目に移った時に、もう大丈夫と思って行動しなさい、実家を出て、相手を見つけようと思いなさい、といろんな人に言われて自分でも体力に自信が出てきて、仕事もバリバリやるようになりました。ただ、だるさや眠気はまだまだありました。でも、よい人たちに恵まれて、いろいろと世話を焼いてもらい、精神的にも安定してきて、また、一人暮らしを始めることができました。ただ、今度は住む場所に条件が出されました。「過去に洪水など、水の出た場所以外に住みなさい」と治療師の先生に言われました。私の喘息には、洪水や、水が浸った場所が良くないのだそうです。確かに、土地は良い土地と言われるところは、調べてみれば、閑静な住宅地で分譲が多く、賃貸物件は少なく、低い土地や昔、人が住んでいなかったような土地というのは、湿気ていたり、安く賃貸物件があるところが多いと思いました。江戸時代あたりまで調べて、その土地を調べると東京が水の都と言われたことがよくわかりました。
 
住むアパートも自分で、シックハウスにならないように、壁を専門の塗料で塗り替えたので、寝る部屋は快適でした。ただ、独り暮らしから、夜寝るときに過緊張になってしまい、ぐっすりとはなかなか眠れませんでした。そして、そのころ、治療院の先生に陶板浴というものを教えてもらい、陶板浴に行くと、肩こりや疲れがスーッと溶けるのがわかりました。デトックスが早いんだな、ということがわかりました。その陶板浴で、アーユルヴェーダや足もみ療法の先生と会い、体をほぐしてもらって、体が楽になることができるようになりました。ただ、それは、続けないと治らないし、通うのも時間が制約されるので、休みの日は、陶板浴・アーユルヴェーダ、足もみが中心になりました。そして、陶板浴を始めてからは、休日に寝っぱなし、ということがなくなり、休日もどんどん出かけるようになりました。
 
ただ、気が付き始めたのは、自分の仕事、特に子供と対峙する・仕事に対峙する姿勢は常に焦っている・イライラしているんだなあということです。やっと、自分を外から見られるようになってきて気が付きましたが、他の人は余裕があるのに、自分はいつも余裕がないなあということでした。しかし、職場の人がみんなとても良い人で、本当に人間関係がうまくいくようになっていたので、深くは考えませんでした。
 
夫と出会い、結婚しましたが、家事と仕事の両立がうまくいかず、いつも喧嘩していました。しかし、結婚もあきらめていたのに、できたので、それだけでもすごいことだと思いました。教員の同僚はほとんどみんなが夜八時九時まで働き、土日出勤も一日は当たり前なので、知り合えて、結婚できたのは私にはすごいことと思えました。でも、本当に余裕がなく、疲れ果て、心もギスギスして、いつも毎週末の陶板浴でデトックスし、ついでに実家に帰って父と母に会うのが楽しみでした。
 
ただ、だんだん父が健康を損ねてきていることがわかり、思うように体が動かなくなってきていることがとても心配でした。それで、自分の健康が上向きになってきているので、人のことまで考えられるようになり、父と母のために足もみを家でできるように勉強しました。ところが、強く私が足もみをするので、父が嫌がり、また、私が薬は良くないと父にうるさく言うので、父は私が健康法を教えても嫌がるようになりました。

でも、私のほうも、父が動けなくなって、介護になると自分が働けないし、母も大変になることがわかっていたので、なるべく母の負担が減るように母のストレスが減るようにと考えていました。父がだんだんと母が外に出かけるのを嫌がって、大声を出したり、嫌味をいちいち言うので、ほとんど買い物と習い事以外に出かけることができないので、私が週末母を外に連れ出して気分転換することにしていました。父は父で、健康に不安があり、母に始終そばについていてほしくて、ひどいことを言っていたんだろうとわかってはいましたが、私も母も週末に気分転換したくてたまりませんでした。
 
そんな時にあしもみの先生から、オルゴール療法のCDを紹介され、その時は次に移った学校で、クラスが大変だったこともあり、購入してみることにしました。自称健康オタクと言っているくらい健康に興味がある私は、すぐに面白い療法だなと思いました。けれど、最初に足もみのところでCDを聞いたときは、あんまり好きじゃないし、うるさいと思いました。それなのに、買ってみて、クラスで聞いてみたら、子供たちが変化するかもと思って買ってみました。クラスで聞かせたら、うるさいと不評で、しかも、そのときにデッキが壊れてしまったので、家にCDを持ち帰りました。そして、しばらくそのままだったのですが、ある時におなかが冷えて痛くなり、家のステレオでCDを聞いてみようと思いました。そしたら、半分聞き終わったくらいから、ただ、ステレオに向かってじっと座っていただけなのにポカポカしてきて、おなかの痛みがなくなっていました。へえ~と思いました。これは、CDでこれだけ聞くんだから、オルゴールの本物も試してみたいなと思いました。そして、夜のオルゴールの時間なら、仕事が終わった後も行けるし、値段も手ごろで試しやすいなと思ったのです。
 
オルゴールを実際に聞いてみたら、なんていい音色なんだろうと思いました。コンサートに2000円で行った感じがして、これなら、音楽を聴きに来ると思えばいいなあと思いました。気持ちいいな~という感想でした。また、聞いている時に涙があふれてきて、涙が流れるときは疲れも取れているので、これはいいと思いました。心が軽くなって、東京駅のホームで10月なのに、冷たいジュースが突然飲みたくなりました。体が熱いのです。はあ、体が温まっているんだなと思いました。こんなことは今までの自分の生活の中でなかったことなので、ちょっと驚きました。それで、父に買ってあげたらどうかなと思いました。
 
父に話したら、激怒して、「そんな高価なもの騙されてる!」と言うので、母と相談して、自分のボーナスでまず買ってみようと思いました。そうしたら、夫もひどく怒って、「騙されてるのがなんでわかんないの!」と言い、そこから、1か月くらいはまともに口を聞いてはくれませんでした。私は、自分の経験から、絶対に健康にいいんだと思ったので、早くオルゴールが来ないかなとウキウキしていましたが、学校の先生方に話しても、またいつもの水橋のへんな衝動買いが出た、あの人、「本当に変だよね」という顔をされていました。
 
届いてみて、自分がまず、すぐに寝つけるようになりました。オルゴールがないと不安なくらいに寝つけるようになりました。また、父がうるさいととても嫌がったのですが、冬のある日、こたつのテーブルを取って、こたつ布団だけにし、父をその間に寝せて、オルゴールを父の心臓の上、頭・足の順においていってみたら、父がくつろいだように気持ちよさそうに寝ました。そのころにはもう、日中うとうとする時間がとても増えていっていたので、父の気持ちよさそうな様子をみて、やっぱり、オルゴールはいいんだなあと思い、母に、できるだけ、オルゴールかけてね、とお願いして、実家に置いておくことにしました。でも、テレビが大好きな父は、テレビを一日中見たいので、どうしてもオルゴールがうるさいようで、それ以降はオルゴールをかけることを許してはくれませんでした。
 
たぶん、こたつ布団を一度取って、自分も立ったり、寝たりをするのが大変億劫だったし、寒くてそこまでしたくなかったのだと思います。常に座ったままで、テレビを見ているのが好きな父でした。
 
その父が、4月に亡くなり、もっと親孝行すればよかったとか、父の好きなことにずっと付き合ってあげればよかったとか、なんで、母と気晴らしばかりしていたんだろうとか、父はどんな気持ちで私たちが出かけるのを見送っていたんだろうとか、最後の日の父の顔とか思い出したり、後悔したりすることや、葬儀や相続のこと、今年度に入って仕事内容が大幅に変わったことなどで疲れとストレスがたまっていたようです。帯状疱疹になりました。一週間くらい、帯状疱疹がわかりませんでした。痛みだけがずっとあり、週末にひどくなって初めて、へんだなあと思いました。でも、痛みの原因がわからず、週末に実家に帰った時、こういう時こそ、日中にもオルゴールをやろうと思って、自分のためにたくさんオルゴールを聞きました。そうしたら、オルゴールを聞いている間は、痛みがほとんどありません。内科に行っても痛みがなんなのかわかりませんでした。実家にオルゴールを置いたまま、アパートに戻ってきて、痛みをこらえて勤務していたら、二日後に右腹部にに湿疹ができていて、それで帯状疱疹と診断してもらえる皮膚科に行き、病名が付きました。実家にまた帰って一週間静養し、寝るときはいつもオルゴールをかけていたので、また、オルゴール療法に行きたくなり、行ったら、佐伯先生にお会いして、セラピストの講習を受けなさいと言われて、これは、天のお言葉だと思いました。
 
療法をその時に受けたら、やはり、オルゴールが強いので、そのあと、帯状疱疹の消え方が勢いよくなっていました。薬も必要ないなと思い、それ以降はやめました。その後1週間後にセラピストの講習を受けて、その時にたくさんオルゴールが聞けたので、跡がかなりきれいになっていて、今週5日間の仕事もバリバリできました。精神的にも安定してきて、子供に怒ることが減りました。オルゴールをもっと頻繁に聞いたら、子供もできるかなと期待しています。9月に届くのがとても楽しみです。母にも聞いてもらって、調子が良いと言われています。いいものと出会ったなあと思いました。体力のない私がどこまで体力がつくか、とても楽しみです。首の痛みもほとんど消えてしまいました。
 
2、新しいものをくみ取れたか

私が、西洋医学では自分は合わないと思った時から、見つけ出してきたいろいろな健康法は、とてもいいものでしたけれども、オルゴール療法はとても画期的だと感じました。それは、オルゴールは耳で聴くもので、音楽なのに、美しい音楽を味わうことに加えて、その音の響きの超高周波から超低周波までを脳幹に届かせていることが、健康になることに通じるということです。ただ、音楽を聴くのではなくて、その音の響きに効果がじかにあるということが本当に驚きでした。科学的に証明できることも素晴らしいと思います。東洋医学は科学的になかなか証明できない不思議なものもありますが、この療法は、自然の中にいるのと似たような効果が作り出せて、体に作用していることがとても面白いです。私が初めて聞いたときに感じた体が解放されているような感覚はそれなのだと思いました。また、講習で、交通事故に合われたり、がんで大変な思いをしたり、リューマチで痛みがひどいのに楽になって治る方々のお話を聞いたとき、健康状態がひどい人にやればやるほどよく効果が上がるのも面白いと思いました。面白いなどと言ってはいけないのでしょうが、まっすぐに人間の自然治癒力に働きかけていける療法は今までにはなかったと思いました。だから、続けてみたい、自分もこの療法に携わってみたいと思いました。さらに、所長とお話した時に、教育とつなげたいというところが、私の興味と重なりました。私が接してきた子供たちの中には、落ち着きがない、人との関わりがうまくない、当該学年の学習を理解できないという子供たちもかなりいますが、教員を何年もやっていると、なぜ、この子は頭が良くて、この子は伸びないんだろう、と感じるときがあります。どんな子でも、自分のもっている能力を最大限に引き出せる方法はないのかな、と思っていました。オルゴール療法は、これに相当するものではないだろうかと思います。CDをあるお子さんのお母さんがお子さんに聴かせてくださったところ、すんなり就寝してくれたり、落ち着いたりということがありました。お母さんがとても喜んでいらっしゃいました。そして、お母さん自身もさらに前向きになられました。
 
オルゴールの高周波が脳幹・視床下部を刺激し、血流を促し、それが体内の不調を改善していくことは、全部のその人の改善につながるということは、難しい研究や検査を経てわかったことなのでしょうけれども、構造は至ってシンプルでわかりやすいことも素晴らしいと思います。
 
3、何に使いたいか

私は、教員としてあまり長くはないですけれども、小学校の教育に携わってきました。ですから、日本の子供たちの特に、学習が苦手な子供たちの手助けになるような、子供たちが学習に集中できたとか、学習が楽しくなったとか、もっと自分からいろんなことに挑戦してみたくなったとか、そういう声を聞けるオルゴール療法の使い道を探っていけたらと思います。これは、私自身がオルゴールを聞くと、電磁波や化学物質過敏で頭の中がもうろうとしたり、疲れてぼーっとしているのに、さらに仕事があってやらなくてはならない状況と似ていて、本当に頭がすっきりしている時には、さっさと仕事がはかどるので、同じような状況の子供たちにも大いに役立つだろうと思われるからです。
 
さらに、私がもう42歳になるのですが、赤ちゃんにやってきてほしいのです。それは、体外受精など、人工の方法ではなく、このオルゴール療法をしてみることで、その願いが叶えられればと思っています。
 
また、家族がいつ具合が悪くなっても、自分がオルゴールを持っていることで、調子を悪くすることなく、天寿を全うして、幸せに楽しく暮らしてほしいと思います。親せきにパーキンソン病の叔母がいるので、困っている人たちに幸せになるためにこの療法を勧めたいと思っています。自分が病院や薬が合わなかっただけに、周りの人たちにも、西洋医学だけではなくて、自分の自然治癒力を使ってさらに健康になれる、どんどん健康になれる療法があるんだよ、ということを広めていきたいです。お医者さんだけが、自分の健康を管理してくれるのではなく、自分の健康も自分の能力も自分で高めていけることが真の自己実現につながるのだと私は考えます。
 
最終的には、一人一人が、誰かに頼ることなく、自分の人生をちゃんと全うできる世の中になっていけば、医療費が少なくなり、介護費用や老後の心配がかなり減るのではないか、それは、国民一人ひとりの幸福度を上げることにもつながるのではないかなと思います。そこまで行ったらとてもすごいことですが。
 
4、オルゴール療法への希望・提言

所長の話を聞いて、オルゴール療法がここまで来るのは、相当大変だったのだとわかりました。人の中の常識を覆すようなものが一般の人に認められたり、世の中にでることは、いつの時代でも本当にその渦中にいる人たちは大変です。そして、これからもオルゴール療法が世に普通に認められる日が来るまでには、相当かかるということもわかります。なぜなら、オルゴール療法が認められれば、ほとんどの医療がいらないということになってしまいます。そして、日本の医療制度が根本から覆されてしまい、今、いるお医者さんたちの立場がなくなってしまうからです。しかし、世の中は、医療だけではなく、目覚ましく変化しています。それは、みんなパソコンや情報通信の世の中でわかっていることなのに、特に日本人は既成概念を自分だけ外して、意見を表明することが苦手です。どこかで、人間は感情的になっていろいろと考えてしまう。その時に、「なぜ、音楽を聴くためのオルゴールが治療に効果があるのか、つじつまが合わない。」と変なところで、論理的にならず、否定的になってしまうのです。それをやってきた佐伯所長はすごい方だと思いました。40年やってきて広げて、支部を作ってこられたのは、相当な意志の力だと尊敬します。
 
私は、化学物質過敏症や、電磁波過敏症がわかってから、周囲の人に、化学物質や電磁波についてわかってもらうのに、相当苦労してきました。本当に理解してくれているのは、母と父と夫くらいで、それでも完全にわかるというわけではなく、つらいということだけで、中には、話すと馬鹿にされたり、怒ったりするひともいます。家族にも理解してもらうまでには、相当な時間がかかりました。夜のお茶を眠れないから飲みたくないという説得だけでも、何年も理解されなかったほどです。夫も自分の湿疹にステロイドを塗ったら悪化するよというのをわかってもらうのに、1年かかりました。そんな風に人間の習慣や思い込みを外すのはとても大変です。だから、オルゴール療法にたどり着けた私は運がいいし、それから、自分がここまで来た道筋がちゃんと合っていたからだと思いました。きっと、私の他にも、このオルゴール療法にたどり着いて、健康になった皆さんは自分が心から健康になりたいと願って努力してきたからこそ、今の自分の健康があるのだと思います。
 
だから、お願いがあります。オルゴール療法は、いろいろな苦労を経て、ここまでやってきました。(そんなことを私が言う立場ではないのですが、これから、広めていくという立場として言わせてもらいます。)その道筋は、長く、遠く、けなされたり、批判されたり、説明しても馬鹿にされることも多々あったと思います。でも、この療法は間違っていないという信念がここまで来させたのだと思います。この療法に出会った人は、その時が、まさに出会うときで、その時のためにその人の人生があったのだと思うのです。だから、その道筋は、決して無駄でもなんでもなく、通るべき道をちゃんと通ってオルゴール療法に」たどり着いたのです。だから、もっと早く気づいていたら、とか、これまで無駄だったとか、その人に思わせてはいけないと私は思いました。その時の出会いが最高の時を持して出会ったのだと思います。それに対して、療法家がその人を否定してはならないと思います。そして、その人がここに到るまでの道のりは、たとえ間違っていたとしてもそれを否定したり、簡単に馬鹿にしてはならないと思います。その人の試行錯誤の末がここに到らせる結果になったと思えば、この療法にたどり着いて良かったという想いや感謝の気持ちは果てしないものになります。
 
つまり、私は、このオルゴール療法が、批判されたり、馬鹿にされてきたりした過去があっても、それを他の療法に返してはいけない、それは、オルゴール療法が理解されてこなかった歴史のように、オルゴール療法に携わる人間もまた、他の療法に対しての深い理解を持つことなく、批判したり、馬鹿にしたりすることにつながってしまうからです。さらに言えば、同じことを繰り返せば、また、オルゴール療法がその悪い循環の中に入っていってしまうと思います。そういうことを療法家は忘れずにオルゴールを世間に広めていけた時に初めて、オルゴール療法が一般的に認められてゆくのではないでしょうか。
 
5、まとめ

自分勝手なことをたくさん書かせてもらいましたが、私にとっては、久しぶりの長いレポートで、大変自分自身の勉強になりました。オルゴール療法との出会い、響きの気持ちよさ、その後のあたたまった感じ、所長との出会い、療法の講習の皆さんやセラピストの皆さんのお話、久しぶりに自分の職を離れたところでの勉強で、いろいろな考え方や、それまでの体験やご苦労されてきたことに深い感銘を受けました。自分は、ここにいていいのかなあと思うこともしばしばでした。自分の体調は、この人たちのようにひどく悪かったわけではないのに、どうしてここにいるんだろう、とか、私ができることはあるのだろうか、と考えていました。でも、最終的には、やはり、自分の周りの人々の健康やその能力をもっともっと上げることで、今よりも幸せになれる人がたくさん出てくるのではないかなあと思いました。まずは、自分が自分の健康を満足のいく状態にしてみて、皆さんのお役に立ちたいと思いました。
 
ここ数年、私が、常に考えてきたことは、自分が世間の皆さんのお役にどうやったら立てるのか、ということです。ずっと社会にでてから、無我夢中で働いてきましたが、何のために働いているのかなあと思ってきました。最近、人の役に立つことが私の幸せではないかとやっと思えるようになってきました。でも、何をしたら、人の役に立てるのかがわからないなあと悩んでいました。自分の得意分野はなんだろう、私はそんなに技術がないなあと思いました。そんな時、オルゴール療法だったら、自分の能力ではなくて、自分の労力で力になれるのではないかと思いました。学んでみて、「自分が治してやったと思うのは間違い」という所長のお言葉にますます、これは、私向きだと思っています。いろんな困っている人たちの役に立てそうです。困っている人たちに役立っていくそのうちに、知らないうちにオルゴール療法は、有名になっていくのではないかなあと私は勝手に未来像を描いています。
 
まだまだ、この先は長く、私の場合は、教員の仕事が最優先なので、関われることも少しずつだとは思いますが、セラピストに認定されたら、微々たるお手伝いから始めさせていただけるとありがたいです。また、何より、私と母と夫と弟の家族がオルゴール療法により、楽しく、心豊かに健康に生きていけることをまず目指して取り組んでいきたいと思います。
 
3日間の講習をどうもありがとうございました。そして、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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