悪性リンパ腫から蘇えってオルゴール療法は凄い!

1.「オルゴール療法を知ったのは突発性難聴で悩んでいた私に、ネットで検索して教えてくれた短大の時の友達(オーストラリア在住)がきっかけです。ずっと躊躇して何もしないままでした。

 その後たまたま癒しフェアに行き、ブースに行き、その時にチケットをいただき、彼女が帰国した際に日本橋に個別療法に行きました。それからのお付き合いです。

あと 、覚えていらっしゃらないと思いますが、今年の1月7日に所長が久しぶりに奥様と梅田本部にいらっしゃった時に、嫌な事やマイナスな事を言ったり考えたりしてしまったら机の下を三回のお呪いを教えてくださった時の者です。確認を兼ねて、ざっと経過を書き記します。

 事の発端は、2月11日の母親の誕生日に帰省した時からです。顔が浮腫み、とても食欲が無いとの事。年末の大掃除で疲れ、1月下旬の姉一家孫三人のお世話でさらに疲れ、ずっと夕食は疲れて食べる気がせずほとんど摂らなかったそうです。

 11日12日と祝日だったため、13日に無理矢理町医者に行かせ結果が出る15日を待ちました。大阪へ戻り、15日の検査結果を聞くと、血液検査の結果が特に肝機能が悪く、大きな病院で精密検査を受けろと言われ、20日に受診、そのまま入院。今は多摩総合医療センターに入院しています。

 最初は、風邪かインフルエンザを疑っての受診がまさかの低カリウム症からの悪性リンパ腫ステージIV。ただの酷い過労であって欲しかった。数日点滴入院するだけかと思っていました。81歳になったばかりで、急にこんなことを言われ母親はさっぱりしており、「もう80年生きたから、もういいわ」と言っていたそうです。」

2.「2月27日にERの先生から話があると聞いていて、その日に父親から電話がなかったので、大事ではないと、思っていたのですが、翌日に電話をし、ガンだと知りました。急には仕事を休めず、3月5日にようやく東京へ。

病室を訪れると、さらに顔も手も足もパンパンに浮腫み、人格まで豹変してしまった母親がいました。

 「食欲が無いから町医者に行ったのに、ひっかきまわされて、病院に病気にさせられた。こんな病気なんかに負けないわよ!」と胸水の影響で声も出ず、咳き込んでとても苦しそうでした。病院に来た時点で、容態がかなり悪く、検査結果を待たずに3月2日に抗がん剤治療が開始されていました。

 幸いにも副作用はなく、とにかくむせて食事を摂るのがやっと。水分を摂るのでさえしんどそうでした。私は二日以上休めず、ドクターの話を聞くだけでとんぼ返り。ステージⅣ。「ご高齢ですし、投与量は2/3でやり、治療に耐えられなかったり、抗がん剤が効かない場合は、緩和ケアのみにします」とのことでした。

「返書」 大変な中で、メールを書いてくださり有難うございます。オルゴール療法がお役に立っていることを教えて頂くだけで本望です。よくぞ、信じられない中で、オルゴール療法を信じて頂きました。医者の応急手当も命をつなぐ為には大切です。その中でお父様の自然治癒力を上げる“ひびき”は必ず改善にお役に立つと信じています。健康が取り戻せることを願っていますよ。須藤さんの孝行は、ご自分の健康の為にもなりますから精一杯頑張ってください。     日本オルゴール療法研究所 所長 佐伯吉捷

3.「父は、何も家事が出来ない人なので、突然、母親が家から居なくなり、料理と洗濯をしなければならないストレスが覆いかぶさりました。急変の場合の、毎晩電話が鳴るかを待つ恐怖の日々。家でもオルゴールを聴いてもらっています。闘病生活でしんどい家族にも、とても効果があります。

 自律神経が乱れると耳鳴りが激しくなる私も、思ったよりかは、しんどくなく、ふわふわ感が出てしまっても、なかなか大阪に帰って荷造りが出来ないなどの不安感も無くなります。それと、去年の10月から歯の 痛みを我慢していた父親は、ここにきて、とうとう抜歯をする羽目に。歯医者に「よくここまで我慢しましたね」と言われる始末。

オルゴールのおかげで、腫れもなく。痛みもなく。熱もしんどくない程度の微熱で済みました。眠れない時は、夜中にオルゴールを抱いて寝ています。父は、80歳の割には、今のところ動けています。最愛の人の心配はありますが、食欲もあります。

 父親が一番、オルゴールの不思議を理解し始めています。「騙されたと思いましょう」と、笑うまでに。そう、一日一日容態が変わる中、笑うまでになっています。今、人工呼吸をするかの決断を迫られています。父親は素人なんだから、病院に任せると言っています。私は反対なんです。管を通され、話せなくなり、呼吸苦でモルヒネなどで朦朧としたまま亡くなるのは、しかたがないことなのでしょうか?長々と呼んで下さり、ありがとうございました」

4.「ゴーゴーと24時間稼動している頭の上の巨大空気清浄機が取れ、さらにグッスリ眠れるように。せん妄も出なくなり、認知症のテストをさりげなくしておりますが、それも大丈夫そうです。母は、色々な質問に的確に答えます。相変わらず口から食事を摂り、SPO2は95以上をキープ。酸素はほぼ2リットルくらいで調子がいいです。高熱も出なくなり、出ても37度前半。元々平熱が36.7度なので微熱程度。車イスにも長時間座っても苦しくなく、希望していた花見が、病室の窓からですが、叶いました。

 アイソレーターが取れたのが19日。そのまた一週間後の26日に今度はシャワーも。少しずつですが、確実に回復しています。あんなに拒否していたオルゴールも母親は腕を上げて、脇に入れるのを待つくらいに(笑)。今は、大好きな母親がこんなに長い間居ないのが初めてなので、情緒不安定になり、イライラが出てしまっている父が拒否。「あんまりかぶれるなよ」という発言に心が痛みます。

 四週間経つので、CTをとりました。白血球数はさらに上がり二桁に!血小板も上がり続けています!胸水も減ってきています! 腫瘍マーカーの数値も失神しそうな値でしたが、三分の一に! 次の2クール目の抗がん剤治療もやることになりました。第二章の始まりです。

 ある日、父がふと『お母さんと結婚する時に、日本製だけどオルゴールを贈った』と。急でしたし、今頃?でビックリ。母にそれを話すと「お父さんだったかしら?友達じゃない?? 60年も前だし覚えてないわ」と世の女性らしい残酷な返事(苦笑)。でも、しまってある場所を覚えていて、見つけました。60年前屋上でプレゼントした、私たち子供に壊されたオルゴール。なんか、素敵です。一生 懸命、父親がメンテナンスしました。曲名は「走れトロイカ」。やっと母が笑って、嬉しかったです。

5.「18日に自分の引っ越しを控えており、安定しているので、夜に大阪に戻ろうとした3月14日の午前中に病院からせん妄が激しく、夜中にコードを引き抜いてしまうと言われ、身体抑制の同意書にサイン。13日の夜から熱にうなされ、白目を剥き、暴れる母親。腫瘤が悪さをして、どんどん胸水を増やしています。利尿剤で一生懸命に尿を出していた母親。胸水以外の水分でした。

 緊急で胸腔穿刺も行いましたが、細い針でわずかな胸水しか採取出来ず。なんと、血液も混じっており、ここにも腫瘤がありました。うわ言を言っている母に、私は、介護の仕事をしているせいか、動揺はなく、冷静に淡々と手を握り、拒否していたオルゴールを聴かせる私。とにかく、淡々と。そのうち、熱が36.6度まで下がり、暴れる事もなくなり、落ち着いたのが、なんと夕方の16時。すごいスピードで回復。病室に泊まることなく、帰れました。

 その夜にぶり返すことなく、翌朝(本日15日)に病院へ行くと朝ご飯を8割も食べ、口から薬を飲んでいる母親がいました。顔はスッキリ、目も泳いでいません。酸素は2リットル。9時半から16時までオルゴールを聴かせました。

 昼ご飯もベッドで起き上がり8 割とお茶(水分)をおかわりして飲んだ後、アレルギーの薬の影響とオルゴールの音色で、ウトウトし始め、とても気もち良さそうに寝ていました。一昨日の13日は三途の川に行って、見知らぬ人に邪魔をされて、戻ってきたそうです。

6.「15日に夜中にせん妄で眠れないからと、大量の眠り薬を飲まされた母親は、ずっと眠り続け、ようやく今日になって、目が覚めて、食事をまた座位で摂られるようになりました。酸素は2リットル。食事中もずっとSPO2は95以上をキープ。口を開けて寝なくなったせいか、唇が赤くなりました。とても綺麗な赤色です。爪も見れば、きっとピンクですかね。

 とここで、私の心が折れる出来事が。オルゴールを確実に聴かせるために、と容態が悪いのもあり、一日5~6時間は病院内にいるのですが、母親と看護師から「あれこれうるさい」オルゴールも と。

 直近まで介護職をしていたせいか、口出しをしてしまったらしく、認知症の利用者さんと同じ接し方をしてしまったらしいのです。病人扱いをしたくなかっただけなのに。私が居ない時に笑われ、母親は恥ずかしかったと。まあ、文句を言うくらい、母親が元気になったと思いたいのですが。明日半日だけで引っ越しをせざるを得ない状況で、テンションを上げて、乗り切ろうとしていたのが、態度にも出たのでしょう。

 昨日、『人工呼吸器はしない』と主治医に伝えました。そして緩和ケアを申し込みました。しまずに済んで、ホッとしています。あとは、オルゴールのひびきで、少しずつ改善に向かうだけですよね。明日大阪から東京に引っ越してきます。

7.「症例にのせていただいて、苦しんで悩んでいる方々に少しでもお力にと思うのですが、自分の情報と拙い文章が恥ずかしいです。まずは、訂正です。「抗がん剤の副作用もなく。」と記入しましたが、白血球や血小板などの数値が下がっていくのは、抗がん剤の副作用なんですね。主治医や看護師からあまり説明がないので、憶測でしか分からない私には不安でなりません。24時間居るわけでもないので、熱がどうなったのか?酸素状態はどうなのか?とかも。

 前回愚痴りました「看護師からうるさい発言」は看護師長と直接話し誤解があったのかもしれないけれど、誤解を招くような発言をしないように医療従事者としての自覚を持ち、今後気をつけていただくことにしました。これ以上、ただでさえ治療が苦痛なのに、こんなことでストレスになったら治るものも治りませんから。さて。無事に大阪から引っ越ししてきました!朝一の飛行機で引っ越し当日に大阪入りし、まさかの冷蔵庫の中のものの処分に時間がかかり、なんとか五時間で荷造りを完了させ、予定通り搬出を完了できました。人間、やれば出来るんですね・・・あんな死に物狂いは二度とやりたくありませんが・・・

 そして、時期的に激混みの区役所で転出届を申請し立会いを済ませ、大阪を後にしました。新幹線のホームで涙が止まらなくなり、京都で号泣でした。東京に着いたのが夕方。病院に直行しました。食事もろくに摂らず荷造りで疲れた私へのご褒美かのように、私が行った直前にアイソレーターが撤去されました! いつもの病室になりひと安心。母の顔つきもしっかりしていました。寂しがると思い、引っ越しとは告げずにいつもの、「お休み」と言って大阪に行ったので、気が気ではなかったので本当にホッとしました。

8.「4/3から大部屋になってしまいました。重病人が入院されるというので、安定している母が対象に。母はもう重病人の括りではないんだなぁと嬉しい反面、オルゴールが聴かせられない!と残念でなりません…。きざみ食から普通食にもなり、あれだけ飲み込みづらくて、しんどそうだったのが食べやすくなり、全量摂取するようになりました。
 点滴も栄養剤だけになりました。血液の数値が下がらないので、輸血もしていないです。そして、昨日から本人の希望でもあるらしい(本当か?!)リハビリが始まりました。歩行器を持ってきた先生が拍子抜けするくらい、案外スタスタと歩いてしまったそうです。
 母の悪性リンパ腫と病名を知ってから、初めて母に会いに行き、容態の悪さに、即日退職と引っ越しを決めてから1ヶ月。たった1ヶ月ですが、もっと時間が経ったような気がします。思っていたより早く回復しています。

10.「あれから、5月に入り、身体から色々な管が取れ、お友達にも会い始め、スクワットも出来るようになり、ひたすら回復をしていった母親は、ついに退院しました! 6/12です。夏を病院で越すと思っていましたので、早さに驚いています。約4ヶ月、よく頑張りました。(私も
 退院してからは、自分の時間が無くなり、24時間の看護でさらに大変になってしまいましたが、認識のある内に家に帰れて、ホンマに良かったです。まだまだ外来での抗がん剤治療がありますが、オルゴールと共に、ぼちぼちやっていきます。なかなか、オルゴール療法に行けなくて残念です。所長にもお会いしたいです。それでは、また。

まとめ

2月27日 悪性リンパ腫と診断される。『血液のがんだからからだ中に転移します。心臓に行けば破裂します。脳に行けば同じことが起こります。明日にもという状況です。とても危険です』

3月1日 第1回の抗がん剤投与。3月10日 抗がん剤の反応で容体急変、白目を剥き、呼吸困難、

酸素7リットル、輸血が合わず急変、高熱、暴れるので、睡眠剤投与、機能低下しからだに極度の震え始める、父は病室の壁で震えている。『お母さん戻って来て!』 

意識障害を起こし、高熱、胸水を抜き、人工呼吸、その場で「緩和ケア」の申し込みを勧められる。救急のベッドに移され、1週間カーテンを閉められ、マイクで連絡。

3月19日~30日 アイスレーターが取れ、カーテンの中で起き上がれる。7階から起き上がり桜が見ら

れた。大部屋に移される、痴呆の顔が母の顔に戻った.クロスワードが出来る、新聞を隅々まで読める、『車いすに乗りたい』自分でトイレが使えるようになった。髪の毛が黒々と生えてきて驚く。筋肉も強くなり歩けるようになる。院内の畑に出て、野菜の採取、庭の盆栽の水やりを始める。

1日4時間~7時間2台の72弁のオルゴールを聴く。オルゴールの力に凄い効果に驚く。

6月12日 退院、2階への階段を自力で上がる。昔の高い湯船を自力でまたぎ、4ヶ月振りの風呂に

入り母の幸せな顔を見て、忘れられない光景でした。自分のベッドに寝られる。死の床から蘇って普通の生活に戻った。未だ貧血や痩せや白血球数も戻っていないが、一安心です。

7月~8月 自宅の畑からキュウリ、トマト、ナス、ゴーヤなど取っています。記憶力も戻り、2日前の

食事の内容も覚えるようになる。

9月20 ~ 内服薬になり、緩和ケアになり、強い抗がん剤で身体が弱まっているのに、新しい毛髪が生えているのは、抗がん剤が身体から抜けているのではないか、だるさの自覚症状だけがある。唇が最近赤くなっている。『余命半年』と云われていたのに。大部屋いる頃には、もうこのまま逝くと思っていたのに、驚くほどに回復して、医院から『81歳にしては強かったですね』と言われましたが、ここが、オルゴール療法のお陰だと思っています。

6月に退院して、今9月になって極端に元気になっています。意識混濁、脅迫や幻覚のようなせん妄状態になり、胸水が7リットル、酸素を与え続けていたのに、9月6日にCTペットを受け19日に結果を聴きに行く頃には、がんが全てなくなるのではないかと思わせる程に元気を回復しています。

 スプーンが箸になり、おかゆが普通食になり、せん妄がなくなり、字も書けるようになり、新聞も端から端まで読める、4月では、本を読む意識もなかったのに、今は、一行日記も続け、リハビリに行きたい、歩行器につかまり立ちして立ち上がり、スタスタと歩ける、普通食になり、オムツが取れてパジャマになり、酸素や鼻の管も取れ、ステージ4の悪性リンパ腫で明日にも亡くなるかもと思っていた、今母は畑に出て野菜つくりをしている姿をみて不思議な気持ちになります。

医師が『81歳にしては強かったのですね』と言われた、ここが、1日72弁のオルゴールを7時間聴いたお陰だと思っています。

9月23日に研究所の所長にお会いして、「病気は脳が治す、対処療法では治らない、症状は大切なシグナル、血流回復が全て」などお話しを伺って “ひびき”の効果が凄いと改めて思いました」

 「5月に入り、身体から色々な管が取れ、6月には、「お友達にも会い始め、スクワットも出来るようになり、ひたすら回復をしていった母親は、ついに退院しました! 夏を病院で越すと思っていましたので、回復の早さに驚いています。約4ヶ月、よく頑張りました。母が退院してからは、私の時間が無くなり、24時間の看護でさらに大変になってしまいましたが、認識のある内に家に帰れて、良かったです。
 私のひどい突発性難聴も電磁波からの影響だと解り、72弁を手にいれて、和歌山のみかん畑でしばらく働くようになってからすっかり、良くなりました。

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「注」ひびきの療法が全ての症状を改善するものではありません。

自然界の“ひびき”によるオルゴール療法は、脳がコントロールするために心も身体も全身の不調を複数、同時に解くものです。そして、難病を初め、5千名の方の、病状が改善されてきました。その中で、耳鳴りや難聴、関節リウマチやジストニア、橋本病などさまざまの症状を200種を超えています。しかし未だオルゴール療法が触れていない病気も多く、それらを全てに渡って改善する臨床例をもっておりません。脳の自然治癒力が多くの病状を改善する原理は多くの改善症例からみて正しく、確かに手応えを感じて、おすすめしてきましたが、病状の改善に多くの可能性はもっているものの、すべての病状を解くと言い切るには、未だ次期早尚だと考えています。希望を持って取り組まれることを、お勧めしますが、確実性は今の段階で保証できない状況をご理解ください。